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また、翌年船橋市の海洋少年団指導者としてヨーロッパ各地を訪れた都市と田園は一体となっており、美しい町並み、そこに住む人々の住まい方、遊び方、生活のし方などを実際の生活を通して体験した。それに比べて我々の生活の貧弱さ、自然との付き合い方の重要性を痛感した。また、昭和56年ころ東京湾横断道路のプロジェクトがもちあがった。道路建設による海の影響がどのようなものか、道路公団へ出かけて行った。東京湾で巻網漁をやっている船橋の漁師ですと、いくら言ってみても門前払であった。それならば、自分でできることをやろうと、東京湾横断橋というならばサンフランシスコの橋でも見てくるか、とサンフランシスコヘ飛んだ。最初は軽い気持ちで行ったのだが、さすが先進国アメリカである。東京湾のお手本をサンフランシスコで見つけることができたのである。橋を架けた影響のことを知りたかったのであるが、橋のことよりももっと大切な、湾を総合的にどうするかというベイ・プラン、サンフランシスコ湾のマスタープランに巡り会えたのである。ちょうどアメリカでは、サンフランシスコ湾の環境問題に端を発したCOASTAL ZONE MANAGEMT ACT(沿岸域管理法)が制定された時期でもあった。なぜ我が国でもこのような法律ができないのか。私は帰国するやいなや早速、翻訳を依頼して「湾計画・サンフランシスコ・ベイ・プラン」を自費出版した。初版が昭和59年1月、二版を7月に出した。これを契機に多くの有志が自然発生的に集まって「東京湾会議」が旗揚げされた。

2. 東京湾の環境問題

内湾というところは外房(半島)のような波の荒い岩礁海岸とは異なる。埋め立て前の東京湾は潮の干満で、距離にして長いところで6000メートル、短いところでも4000メートルという広い海底が干出、冠水する干潟が特徴であった。干潟とは水深5メートルまでをいう。船溜まりから干潟の中につくられたミオ(澪)を通って海に出る。干潟がなだらかに傾斜して深さを増す。そしてある地点でガクンと、5から10メートルの深みにおちる崖状の地形になる。漁師はこれをケタとかダン口と呼ぶが、そうした崖っぷちに魚がついていた。地質は砂地、泥、ガラ地(貝殻地)に別れていて、今のようにへドロのたくさんたまる場所というのはなかった。今はヘドロで魚の寄り付かない場所にも、埋め立て前は繁(しげ)といって、パイプ状の海藻がたくさん生い繁っていて、繁が網についてくるようなところには必ず魚がかたまっていた。
こうした藻場やダン口をすぎると、湾口に向かって徐々に深度を増していく。内湾で深いところは、南は神奈川県横浜の本牧沖で、これが40メートル。本牧から東南、富津岬に向かってくると、急に17〜18メートルの台地に出る。これが中の瀬で、一万年も前、東京湾がまだ川だったころは中の島だったという。この海底台地をすぎると、また25メートルほどの溝におちこんで、この溝をすぎると富津の10メートルラインにへまた上がる。今度は湾の北寄り、西側の川崎から東へ五井の鼻あたりの海を見ていくと、川崎沖で25メートルから30メートル、東へ走って千葉沖と五井沖の接点、京葉シーバース付近で水深が20メートル、さらに陸へ接近すると10メートルラインと、徐々に変化し、8メートルほどのケタにぶつかる。それからなだらかに干潟へ上がっていった。このように自然の東京湾の海底は、部分的な凹凸はあるものの、総じて安定したお皿のような形であった。
干潟や浅海は魚族の揺藍の地である。太陽光線がよく通るから藻が茂る。その結果、海中へ酸素を供給する。またプランクトンや稚魚が育つ。これらを餌とする魚も集まるトビウオ、サバといった外洋でとれる魚も湾内で育って出ていく。ノリに貝、これも浅海の特産であった。埋め立てられたといえ、いまでも沖側でやっているノリのほうが、漁網でとる魚よりはるかに水揚げ額が多い。漁師は伝統的にこの浅海に依存してきたわけで、湾の沿岸部の浅海がいかに魚介類の宝庫であったことか。浅海は魚介類の再生産の場としてかけがいのないところであった。
漁師になってまず覚えたことは、地形的にはケタが漁場になるということであった。昔の内湾漁師は、言ってみれば10メートル以内の浅海漁業を営んでいたのである。昼の漁でも夜の漁でも、魚探のない時代、ケタは漁の重要な目標になっていた。船橋から西へ走ると浦安沖。広い干潟があって、冬ならノリをやっていて、巻網はヒビ下を働く葉の付いた杉のボンゲ(棒杭)が目印としてヒビの沖に立っていて、ソコリになると、ヒビの中にまで入り込んでい

 

 

 

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