また、翌年船橋市の海洋少年団指導者としてヨーロッパ各地を訪れた都市と田園は一体となっており、美しい町並み、そこに住む人々の住まい方、遊び方、生活のし方などを実際の生活を通して体験した。それに比べて我々の生活の貧弱さ、自然との付き合い方の重要性を痛感した。また、昭和56年ころ東京湾横断道路のプロジェクトがもちあがった。道路建設による海の影響がどのようなものか、道路公団へ出かけて行った。東京湾で巻網漁をやっている船橋の漁師ですと、いくら言ってみても門前払であった。それならば、自分でできることをやろうと、東京湾横断橋というならばサンフランシスコの橋でも見てくるか、とサンフランシスコヘ飛んだ。最初は軽い気持ちで行ったのだが、さすが先進国アメリカである。東京湾のお手本をサンフランシスコで見つけることができたのである。橋を架けた影響のことを知りたかったのであるが、橋のことよりももっと大切な、湾を総合的にどうするかというベイ・プラン、サンフランシスコ湾のマスタープランに巡り会えたのである。ちょうどアメリカでは、サンフランシスコ湾の環境問題に端を発したCOASTAL ZONE MANAGEMT ACT(沿岸域管理法)が制定された時期でもあった。なぜ我が国でもこのような法律ができないのか。私は帰国するやいなや早速、翻訳を依頼して「湾計画・サンフランシスコ・ベイ・プラン」を自費出版した。初版が昭和59年1月、二版を7月に出した。これを契機に多くの有志が自然発生的に集まって「東京湾会議」が旗揚げされた。